人間の器の大きさ、について。

最近の日本男児の器量が、なんだか小さくなってきている。人間の器の大きさが、みみっちくなってきている、と感じるのは、私だけだろうか?
昔は、スケールの大きな人がいた。ましてや明治維新などは、国あるいは国境が藩の単位の時代に、開国によって一気に、世界の中の日本を考えざるを得なかった時代には、器量の大きな人間がいっぱい出てきた。

人間の器の大きさとはどういうことだろうか?それは、「どれだけ我が事として考えられるか?」ということだという。いわば「我が事」の範囲がどこまでなのか、ということだ。「我が事」が字文字通り自分だけなのか。我が恋人、我が子供、我が家族までなのか。我が地域住民までか。我が職場の仲間。我がサークルの仲間。我が市町村。我が県。我が国。我が人類。我が地球に住む全ての生物・・・・。どこまで真剣に、思いやりを持って、あるいは一命をかけて我が事として考えられるか、我が事として行動できるのか、が問われている。

家族を犠牲にして会社のために尽くす。家族を犠牲にしてお国のために尽くす。この犠牲は、しかし、家族を守る為により大きな世界で努力するということになったり、あるいはより大きな大儀のために努力するということになる。個人益、家族益、地域益、国益、人類益、地球に住む全ての生物益・・・・。21世紀は国際化の時代である。ますます世界とのつながりが濃くなり、利害関係も複雑になってくる。そのときに、どこまでの大儀で行動するかが問われている。

長い歴史の中では、外交の世界、国際舞台では、先ずは国益が優先される。国益を損なう行動は、大衆から反発を食らう。当たり前のことである。が、しかし、自国の国益だけを優先した結果、戦争を引き起こし、結果として双方の国民に犠牲を強いてきたことの何と多い事か。真の国益とは共存共栄の道であると思う。共存共栄共生の道をどこまで追及できるのか。この世界では、自分だけ良いなどということはありえない。ましてや、自分たちだけ、自分たちの時代だけ良ければそれでいい、とは言えなくなってきたのが、現代だと思う。わたし達は、30年後、50年後の子供たちにどんな社会を残していけるのだろうか?