2005年中秋の名月○

スリランカのとある村では、満月の夜に茶葉を摘むと言う。ヨーロッパのとある村では、新月の夜に木を伐採すると言う。

旧暦の8月15日(本日9月18日)中秋の名月十五夜が見られた。お彼岸が近く、昼間が短くなって行くこの時期に、適度な暗さの中での満月の月の出は、幻想的で、威厳があって、感動的で、見事なものである。南アルプスの山の端を、ゆっくりだが確実に昇ってくる姿を見て、地球の自転を感じる。

本日の我家は稲刈りだった。天気は朝から快晴で、良い天気だったが、朝露がしっかり下りていて、10時過ぎの刈り取りスタートとなった。燃料が高騰している昨今、モミに湿気が多いと乾燥するのに時間もお金もかかることになる。しっかり渇いてから刈り始めた。例年、専業農家の本家に依頼し、親戚で現役の三十路の青年が4条刈りのコンバインをチョロQのごとく操り、妻がおてこをし、私がモミを2トンダンプで運んで、実質3時間ほどで刈り終った。父が手塩にかけて育てた今年の稲作も、この後は臼引きを残すだけとなった。昔の稲刈りは、田植えと並ぶ大仕事だったが、減反で4反部ばかりとなった稲刈りは、手間も要らず、短時間で無事に終わった。

古来より、農作業は暦に負うところが多かった。農家暦と言うものさえあった。概ね旧暦を基準にしている。そこには経験と知恵が、いっぱい詰まっていた。雪解けの時期や、山野草の芽吹き、花の開花時期、渡り鳥の飛来した時期、山の雪が融ける様子など、様々な自然の要素を観察し、種まきや、田植えの時期を考えてきた。昆虫の巣造りの様子で、台風の多さを予見したり、降雪の多さを予測した。いわば、自然のサイクルの中で、自然と共に暮らしてきた知恵が、ここにはあった。

月の満ち欠け、月の有無もまた、植物に何らかの影響を与えているらしい。昼に太陽の光を浴びて、夜間には酸素を放出する。植物に月の影響があると考える事に驚かされる。満月に摘まれたお茶の葉は美味しく、新月に伐採された材木は強く長持ちすると言う。なんとも神秘的な思いが湧き上がる。

明方、中央アルプスの天空に浮かぶ白い月は、爽やかにして、また見事である。

森林の文化が人類を救う

古来、人類は森の中に生息していた。いわば人類の個体数が少ない時代には、豊な森林が存在していた。我々人類は、ある人に言わせれば「森から出てきたサル」なのであり、「パンツをはいたサル」とも言われている。

森林は生物の多様性の宝庫であり、それぞれの環境において微妙なバランスの下に成り立っている。時に山火事、水害などで環境を劇的に変えながらも、その土壌には、様々な種子を置き、また無数の微生物を養し、豊な生態系を維持している。植物は二酸化炭素を吸収し酸素を吐き出す。動物は酸素を吸収し二酸化炭素を排出する。両者は補完的な立場にある。さらに植物は水分を取り込み、葉から発散し、空気を浄化する。微生物は有機質のみならず、無機質なものまで様々なものを分解し、浄化していく。古来、森の民であった人類は、森の中で生息することで、身体的にも、精神的にも、「快適」に生きてきた。マイナスイオンフィトンチッドヒノキオールなど、快適さを感じる様々な要素が、改めて認識されてきた。一方、病気を治す医薬品の要素はアマゾンやアジアの熱帯雨林の豊かな生物の多様性の中から発見されている。

文明5000年の歴史の中で、この100年、200年の間に、人類は急激に森から離れていった。現代病の多くは此処に起因する。森林での生活は、いわば地消地産である。必要なものだけを、必要な時に、必要に応じて利用してきた。大量に生産して、大量に消費し、大量に廃棄すると言うことは無かった。過激に植物の成長を促すのでは無く、植物の自然のサイクルに応じて消費し、冬に夏の果実を求めることも無く、冬には秋の果実を加工し貯蔵した。そこから知恵が発達した。海水や岩塩から塩を調達し、化学塩など思いもよらぬものだった。清浄な空気、ミネラルを含んだ豊かな水、新鮮な食物、そして森林が創出する豊かな「気」。今、U.S.A.の30歳以下の4人に1人が何らかの食物アレルギーを持っていると言う。

雑食で食物連鎖の頂点にたったパンツをはいたサルは、森の持つ豊かな生態系を破壊し、単一の作物を効率よく大量に栽培することによって、個体数を格段に増加し、火を使いこなし、内燃機関を開発し、電気を活用し、原子力さえ手にした。森から出てきたサルは、サルだけが効率よく生息できるコロニーを創出し異常繁殖を繰り返している。しかし、異常に繁殖した生物は、自らのコロニーから排出する負の要素によって、やがて破局を迎え、そして再び適正な個体数に調整されていく。人類だけがその自然の掟を無視できるとは思えない。

やがて人類は飲料水の不足に悩み、食糧の確保に苦慮するだろう。さらに自ら招いた大気汚染と温暖化という環境変化(破壊)によって、自らの危機を迎える。これを回避するためには、人類は再び森林からより多くのものを、学ばなければならない。

世界で最も美しい環境国家の創造へ。

日本の国土の7割は森林である。先進国の中では有数の森林国家である。南は沖縄から北は北海道まで、気候風土の多様性と、春夏秋冬、はっきりとした四季の変化がある国。今、地球がいたるところで裸地化し、砂漠化する中で、島国として多湿である事は、国土の緑化に大いに貢献している。また古来より、豊な森林から流れ下る河川と、親潮黒潮など豊かな海流が、海洋国家日本を育ててきた。

歴史的にも、古代縄文文化より育まれてきた自然崇拝や鎮守の森、八百万(やおよろず)の神々を祭る慣用性と、弥生時代からの稲作農耕民族としての協調の心。仏教伝来後、聖徳太子の17条憲法に記された、和を持って尊しとなす、和の精神。さらに秀吉の時代1588年には刀狩令によって、農民、僧侶など一般市民の武装解除を行っている。さらにまた現代憲法における第9条の戦争の放棄。そして武器輸出の禁止。すなわち、古来より持っている日本人の和を尊重する心は、世界の平和に対して、大きな意味を持つものと思う。

一方、かの世界一の超大国U.S.A.における軍需産業は、世界の国々の民主化と自由の確保の大儀の下、巨大に発展してきた。また個人は個人を自ら守る権利があるという理念の下に、武器の所持が許され、全米ライフル協会など、政治に大きな圧力をかけている。U.S.A.における軍需産業は、軍産複合体として発展し、この国の雇用の創出に大いに貢献し、世界の平和維持と民主化を、時に強力に推し進めている。

21世紀、日本のグランドデザインを描くとき、世界で最も美しい環境国家を創造したい。日本全土を花と緑に彩られた庭園国家とし、世界で最も美しいグリーンアイランドにしたい。北から南まで、山を越え、谷を越えて息づく固有の文化を尊重し、多様性こそが豊かさであることを認識し、和を持って尊しとする精神を世界に広め、世界の平和に貢献したい。

鎖国をしていた江戸時代、日本は食もエネルギーも自給自足の国家であった。東京(江戸)は、緑に囲まれた武家屋敷、お花見を楽しみ、鉢植えの花々を飾った庶民の生活など、当時としては。世界で最も美しい都市であっただろうといわれている。さらにおよそ100万人の人口を擁しながらも、見事にリサイクルが行き届いた環境都市だったという。この伝統を踏まえ、高い技術力と豊かな知識を駆使し、世界で最も安全で安心できる、健康で美しい国を創造したい。

雇用は最大の福祉である。

今から20数年ほど前、専業農家の叔父がこう言った。「お前達の将来は良くなるぞ。鉄腕アトムとか鉄人28号とか、ロボットが働いてくれる時代になる。人間は働かなくてもいい、ロボットがみんなやってくれる時代が来る。人間は遊んで暮らせる。」と。お掃除も、洗濯も、料理も、みんなロボットがやってくれる。建設も製造工場も農業も医療も介護も、みんなロボット。

1999年、ユニクロからフリースが発売され、その安さに皆びっくりし買い求め、ユニクロ現象と言う言葉さえ生まれた。安さの秘密は中国にあった。人件費の安い中国で、優秀な機械と、高い技術力を養成し、研究されたデザインのもとに製造されたものだった。この時、この叔父の言葉を思い出した。「全てはロボットが働いてくれる。人間は何もしなくていい」。全ては中国で作られる。人件費の高い日本は何も作らなくていい。「資源も市場もエネルギーも食糧さえ、海外に求めてきた日本の製造業が海外に行ってしまったら、日本はどうやって、エネルギーや食糧を買うのだろうか。」「すべてロボットがやってくれるのなら、人間はどうやって商品を、サービスを買うのだろうか。政府が分配してくれるのだろうか?」日本の就業人口の6割以上がサービス業である。サービス業はいわば、お互いの靴の磨きあいのようなものだ。日本の製造業が海外移転して、安い商品が輸入されるのは、消費者としては大歓迎である。しかし、気が付いたら、製造業の空洞化が進み、雇用が失われ、いくら安くても買うことができない状態になりかねない。雇用こそが大切なのだ。

一方、日本人の平均寿命は世界一である。100歳以上の人は、全国に2万人以上もいる。長生きの秘訣の一つに仕事がある。家庭で、農家で、年をとっていても、自分でできることは自分でやる。「この年寄りでも、私がいるからこの家がまわっていく。」生涯現役。雇用はまさに福祉でもある。

日本の国家財政は700兆円以上の財政赤字を抱えていると言う。この国民の借金は誰が返済していくのだろうか。国民の税金に他ならない。財政問題は雇用問題であり、雇用は最大の福祉である。雇用があれば暮らしていける。少しでも働いていれば、家族の、世の中の役に立っていると言う実感が、生きがいを作ってくれる。

人間の器の大きさ、について。

最近の日本男児の器量が、なんだか小さくなってきている。人間の器の大きさが、みみっちくなってきている、と感じるのは、私だけだろうか?
昔は、スケールの大きな人がいた。ましてや明治維新などは、国あるいは国境が藩の単位の時代に、開国によって一気に、世界の中の日本を考えざるを得なかった時代には、器量の大きな人間がいっぱい出てきた。

人間の器の大きさとはどういうことだろうか?それは、「どれだけ我が事として考えられるか?」ということだという。いわば「我が事」の範囲がどこまでなのか、ということだ。「我が事」が字文字通り自分だけなのか。我が恋人、我が子供、我が家族までなのか。我が地域住民までか。我が職場の仲間。我がサークルの仲間。我が市町村。我が県。我が国。我が人類。我が地球に住む全ての生物・・・・。どこまで真剣に、思いやりを持って、あるいは一命をかけて我が事として考えられるか、我が事として行動できるのか、が問われている。

家族を犠牲にして会社のために尽くす。家族を犠牲にしてお国のために尽くす。この犠牲は、しかし、家族を守る為により大きな世界で努力するということになったり、あるいはより大きな大儀のために努力するということになる。個人益、家族益、地域益、国益、人類益、地球に住む全ての生物益・・・・。21世紀は国際化の時代である。ますます世界とのつながりが濃くなり、利害関係も複雑になってくる。そのときに、どこまでの大儀で行動するかが問われている。

長い歴史の中では、外交の世界、国際舞台では、先ずは国益が優先される。国益を損なう行動は、大衆から反発を食らう。当たり前のことである。が、しかし、自国の国益だけを優先した結果、戦争を引き起こし、結果として双方の国民に犠牲を強いてきたことの何と多い事か。真の国益とは共存共栄の道であると思う。共存共栄共生の道をどこまで追及できるのか。この世界では、自分だけ良いなどということはありえない。ましてや、自分たちだけ、自分たちの時代だけ良ければそれでいい、とは言えなくなってきたのが、現代だと思う。わたし達は、30年後、50年後の子供たちにどんな社会を残していけるのだろうか?

なぜこの世に男と女が存在するのか。

なぜこの世に男と女が存在するのだろうか。なぜ雄株と雌株が必要なのか、なぜ雄と雌がいるのだろうか。この問いに、ある人は「子孫を残すため」と答え、ある人は「種の繁栄のため」と答えが返ってくる。子孫を増やし、種を増殖させるためなら、アメーバのように細胞分裂し、いくつでも数を増やす事は出きる(クローン)。植物における雄花と雌花は、あるものは花粉を風に飛ばし、あるものは虫に媒介させ、あるものは鳥に託し、様々な工夫をしている。ある意味、あんな面倒な事までして、なぜオスとメスを必要とするのだろうか。

その答えは、多様性の確保にあると思う。エイズ発症の地といわれるアフリカで、明かにエイズに感染しているのに発病しない人々が5パーセントほどいると聞いたことがある。人類の(生物の)歴史は、ウィルスと紫外線との闘いの歴史だった。多様性を確保し、多様性を広げる事によって、様々な危機から「全滅」を防いできたのだ。過去には、コレラでペストで数十万人の命が短期間に失われた時代があった。細胞分裂していくら個体数を増やしても、弱点が同じであれば全滅してしまいかねない。男と女、X染色体とY染色体。偶数に奇数が掛け合わされて、誕生してくる遺伝子は無数に拡大していく。多様性を作る事で、右からの危機、左からの危機、上からの危機、下からの危機、それぞれの危機に強い固体が生き残ってきた。種を滅ぼさないための大きな工夫が、知恵がここにある。

21世紀は多様性の時代だといわれている。21世紀のキーワードは「多様性をネットワークし、コーディネイトし、プロデュースする時代」だとも言われている。すなわち「多様性を組合せ、加工し、演出する時代」なのだ。ひところ、国際標準、グローバリズムなどという言葉が盛んに持ち上げられた。ある意味、インターネット社会のプロトコルのように、統一し同質化する部分も必要である。しかし、一つのものに頼りすぎた時、この本体に欠陥が見つかったり、破壊されると、全てが壊れかねない。リスクは分散しなければならない。

人間社会も同様に多様性を必要としている。過去の歴史の中で、全ての国民を同じ方向に向けさせ、体制翼賛社会を築いた時、一時的には強大な力を発揮するが、やがて内部から崩壊して行く。その過程ではたくさんの血と涙が流されている。多様性を認め許容する事によって、様々な意見を述べ合うことによって、自ずと進路が正しく決まってくるものだ。21世紀は多様性をネットワークする時代だと言われている。

電気の次にくるエネルギーは?

5年ほど前のことだろうか、とある人から唐突に「ねえ、電気の次にくるエネルギーは何だと思う?」とたずねられた。とっさのことに、直ぐには返答できなかった。「気」のことが頭に浮かんだが、一歩まちがうとオカルトの世界に入ってしまいかねない。


人類が電気をエネルギーとして意識し、活用を始めたのは、ここ200年ほどの事だ。平賀源内のエレキテル。ベンジャミン・フランクリンの雷と凧の実験。これらは18世紀半ばの出来事だ。雷や稲光、摩擦による静電気などは、人類が誕生する以前からある、否、地球誕生に関わる頃から存在する自然現象だ。しかし、この電気を人類がエネルギーとして本格的に活用するようになったのは、そんなに昔の事ではない。田舎では、戦前(今から60年ほど前)に各家庭で電気を引いている家はまだ少なかったという。夜間だけ契約している人もいた。夜間も昼間も契約している家はかなり裕福な家だった、と聞いた事がある。電気を引いても電灯以外に使い道が無かったのかもしれない。


しかし今や、電気の無い生活は考えられない。テレビ、冷蔵庫、洗濯機、炊飯器、エアコン、ストーブ、毛布、パソコン、時計、携帯電話、等など。電気無しでは生きられない状況だ。が、しかし、200年ほど前には全く使われていなかったエネルギーである。燃える水、石油。燃える空気、ガス。燃える石、石炭。これらはかなり以前からそれなりに知られ使われていた。しかし、電気の歴史は短い。


9.11以降、人類はテロの新たな脅威を意識せざるを得なくなった。また、最近の自然災害の多さはどうだろう。台風、ハリケーン、サイクロン、地震、ツナミ。東京が3日停電したら、どうなるだろう?電車や地下鉄が止まり、エレベーターが止まり、エアコンが止まり、信号が止まる。パソコンが止まり、ネットワークが止まり、オンラインが止まる。夜は真の闇がくる。もし何らかの形で送電線が破壊され、変電所が破壊されたなら・・・・。都市の機能を停止させるのにはミサイルも自爆テロも要らないのかもしれない。スイッチ一つでオンオフできる世界は便利で効率が良いけれど、その便利さに寄りかかれば寄りかかるほど、何かあった時には手が着けられない状態になりかねない。それが現代社会だ。


最初の問いに戻ろう。人間はもとより犬も猫も電池で動いてはいないし、電気コードも繋がっていない。人間の寿命は70年80年が平均値になりつつある。電気の次にくるエネルギー、確かに何かが存在するのかもしれない。